『死にたがりAのラメント 序 〜遅すぎたリグレット〜』
作:緑野仁

 少女はビルの屋上に立っていた。無表情で下を見る。

「……」

 少女は足下を見ながら色々なことを考える。昨日のご飯のこと。先週見たテレビのこと。弟のこと。両親のこと。飼っている犬のこと。

 そして今、この時のこと。

 そんなに難しいことではない。ただ、生きる意味を見い出せなくなった、ただそれだけだ。それは別段珍しいことでもないだろう。少女はそれがあまりに深かっただけだ。

 病気なんだ、と少女は自分で考えている。これは心の病気だ。名前もない、治療法もわからない病気。症状は心の絶望。そう考えて少女は自分で自分を笑った。

 そろそろ行こうか。少女は口の中で呟いた。下には誰もいない。このまま落ちれば一人で死ねそうだ。

「さよなら」

 自然と彼女は口ずさんだ。誰に向けてというわけではなく、それはきっと彼女が最後に言いたかったことだったのだろう。恐らくは、世界に向けて。

 風の感じる方へと一歩進む。あと二歩ぐらい行けば下へとまっ逆さまだ。

 さらに歩を進める。そして、

「危なぁぁぁぁい!」

 後ろから来た人影に突然突っ込まれた。意図せず飛び、地面が足元から消える。

「っ……!」
「あれ?」

 人影は彼女に抱きついたまま落下していく。耳で空を切る音がする。目には高速で近づくアスファルトが見えた。身体の全てが死への恐怖にすくむ。

「うひゃあああ!?」

 たまらず彼女は叫んだ。人影の方も相当慌てている様子である。

 人影は彼女を抱きながら必死でビルに近づく。そして落ちながらもビルに足を蹴り出した。

 ビルの外壁にひびが入る。さらに信じられないことに人影は壁を蹴って上に飛んだ。落下と上昇の風圧から来る衝撃が彼女を襲う。

 そのまま人影は向かいのビルへと飛ぶ。そしてさっきと同じ要領で壁を蹴りさらに上へと飛んだ。

「っ……!」

 少女は今の自分の信じられない状況に声も出なかった。こいつは何者なのか。そもそもこいつは何がしたかったのか。


「いやあ、危なかった。駄目だよ、こんな危ないことしちゃ」
 ビルの屋上に再び戻った後、そいつは穏やかに話しかけてきた。
 お前が一番危ない。そう言いたかったが色々なことがありすぎて身体が上手く動かない。

 改めて見るとそいつは自分より少し年上ぐらいの青年だった。良く言えば穏やかな顔だが、悪く言えば頼りない。

「あ、もしかして俺のこと怪しがってる? 大丈夫だよーただの通りすがりだから」

 嘘だ。ただの通りすがりはビルを蹴って壁登りしたりはしない。そもそも誰がこんな所を通りすがるのか。

「……」
「あ、実はこのビル俺の職場でね。それで社長が屋上の様子見てこいって」
「……嘘っぽい」
「ああようやく喋ってくれた。本当だよ。何なら見にくる?」

 嘘だ。絶対にその職場とやらに入ったら監禁されてあんなことやこんなことをされるに違いない。少女は必死で男の腕を振り払った。

「んー、嫌われちゃった? どうしようか……」

「おい正実(まさみ)っ!」

 昇降口の方から子どものような声がした。咄嗟に少女はそちらを見る。

「社長が呼んでるぞ。遅れたら尻花火100本」

 本当に子どもだった。見た目は八歳程であろう麗しゅう女の子。だが言ってることは恐ろしく物騒だ。

「ちょっと待って紗英華(さえか)、この娘がまだ……」
「じゃあそいつも連れて来い! わかったらとっととついてきな。早くしないと先週の続きな」

 紗英華と呼ばれた女の子は早くしろと言わんばかりに手を振る。正実の顔がどんどん引き吊った。

「わ、わかったわかった! じゃあちょっとついてきてくれないか! ? 俺の尻の穴がかかってるんだ」

 別に見ず知らずの男の尻の穴がどうなろうが知ったこっちゃないが、とりあえず少女はついていくことにした。人に見られないように死にたかったからだ。そのためにはまたこいつらから離れてから死ななければいけない。

「そういえば君の名前は?」
「……」

 そこで少女は黙った。出来れば自分を知る者は少なくしておきたい。

「……これから死のうとしたんだから、私は名前なんていらない」
「えーと、じゃあ……どうしよ」
「どうでも良いから早く来いや!」
「はいぃっ!」

 慌てて正実は階段へと向かった。



 少女は正実と紗英華と共にエレベーターに乗り込む。職場は十階立てのビルの四階だそうだ。

「で? アンタはあんな所で何しようとしてたの? まあ理由は一つぐらいしかないけど」

 見た目が八歳の少女にタメ口を叩かれるのが気にさわったので少女は口をつぐむことにした。代わりに正実が慌てて喋る。

「いやー、その娘がビルのはじっこに立ってたんだよ。それで……」
「おい正実。私がいつお前に発言権をやった?」
「ひゃいっ!」

 この感じからするに、職場とやらでの力関係は紗英華のほうが圧倒的に上なのだろう。八歳の少女が良い歳した大人を服従させているのは外から見ると酷く滑稽だ。

 紗英華が正実に言葉の暴力を浴びせているうちに、エレベーターが四階の合図を鳴らした。ドアが仰々しく開く。

 四階は明らかに浮いた空間だった。まず、扉が一つしかない。さらにどういうわけか階段がない。

「……なんで階段がないの?」

 好奇心が勝ってか、少女はポツリと口を開く。それに紗英華が反応する。

「お、ようやく口をきいたか。それはね、逃げないようにするためさ。エレベーターだけならどうにでもなるじゃん?」

 それを聞いて彼女はいよいよもって覚悟した。この扉をくぐったらもう戻れないかもしれない。

「んじゃ入るよ」

 そう言って紗英華はポケットから鍵を取りだし、ドアノブに刺してゆっくりと回す。その一連の行動全てが彼女には恐ろしくゆっくりに見えた。

 紗英華がゆっくりドアを開ける。少女は大きく息を飲んだ。

「社長、正実の屑を連れ戻してきましたー」

 言いながら紗英華は中へ入った。つられて少女も恐る恐る入る。正実も違う理由で恐る恐る中へ入る。

「……」

 中は予想していた以上に殺風景だった。普通の職場という感じで、いくつかある机の上には山積みの書類がのっている。特に一つの机には天井に届きそうなぐらい積み上げられていた。机の上のネームプレートには恐らく″正実″と書いてある。
 ふと少女は前を見た。そこには眼鏡をかけた、中年そのものといった感じの男が椅子に座っていた。顔立ちは整っているが、髪は伸ばしっぱなしで髭も無造作に伸びている。

「社長ー、屋上のことなんですけど実はこの娘が飛び降りようと……」
「……壁」
「へ?」

 正実が呆けた声を出す。社長は面倒くさそうにゆったりと立ち上がった。

「ビルの壁、さっき壊したよな?」
「あ、あー……それはですねその、人道的措置というかその……」

 半泣きで言い訳をする正実の頭に何かが高速で振り下ろされた。社長の手刀だった。

「ジェイミー、処罰しておけ」
「……」

 社長の横にはいつの間にか女性が立っていた。豊満な身体に金色の髪で青い瞳、そして何故かメイド服にマスクという奇妙な格好だった。ジェイミーと呼ばれた女性は無口で正実を別の部屋に引きずる。

「さて、君は……あー、何という名前かな」

 机に戻りながら社長が話しかけてきた。少女はどう反応すれば良いか返答に困り、しどろもどろに口を開く。

「あの、私はただ此処で死のうとしただけで……だから早く帰りたいんです」

 そしてまた誰もいないところで死にたい。そう言うのはさすがに自分で喉がつっかえた。

「……すまんが、そうもいかない」
「え?」
「君は彼を見て、さらに我々の職場を見てしまった」

「彼って……それは確かに凄かったですけど」
「だろう? ……ああ、お帰りジェイミー」

 ドアの開く音がしてそちらからさっきの女性と正実が出てきた。正実はどう見ても息をしていない。だがそんなことより彼女はその先の部屋の中を見てビックリした。

 その部屋は、今いるこちらとは全く対極を成すような様式をしていた。怪しげな機械類が並び、真ん中に置かれたベッドはまさに解剖などに使われるそれだ。部屋全体が薄暗く、自分がその中にいる所を想像すると鳥肌が立つ。

「見えるかい?」

 社長がこちらに話しかける。少女はビクリと震えて怯えた目で社長を見た。

「ああ、何か勘違いしてるかい? アレはコイツらの為のもので君とは関係ないよ」

 社長は変わらず穏やかな口調で言った。

「コイツら、って?」
「私とか、そこの屑のための装置なんだよ」

 紗英華が口を開く。

「じゃあアレは一体……」
「そういえばまだ我々の会社について話してなかったね。……聞くかい?」
「えっ」

 この質問は、恐らくこれを聞いたら本当に後戻り出来ないということなのだろう。だが彼女の中では既に好奇心が打ち勝っていた。

「……教えてください」

 後悔と恐怖と興奮を抑えながら、少女はたずねる。社長はわずかに微笑んだ。

「ここはヒューマン・リモデリング・カンパニー……つまり、人体改造組織さ」


>>壱 〜自らのパースーツ〜