『トショ∞コイ アカ』
作:璃歌音



 図書館で、ふと本棚の本に手を伸ばすと、たまたま隣に立っていた女性も同じ本に手を伸ばす。手と手はぶつかりあい、お互いの視線をとらえ、二人は恋に落ちる。そんなシチュエーションはマンガや小説の中だけだと翔は思っていた。それなのに、今まさに自分がそういうシチュエーションに置かれているのは一体どういうことだろうか。
 が、一つだけマンガや小説と違うのは、ここが図書館の開架ではなく、書庫であるということだった……。

 翔は、去年、大学を卒業してから今日まで亜城市立図書館で司書として働いている。今月で働き始めてからちょうど一年が経ち、仕事にも慣れてきたこの頃だ。
 今日、とある小説の場所をわりとよく来る大学生らしい利用者に尋ねられ、カウンターの端末で検索をかけると、書庫、と表示されたのでいつものように二階の書庫に取りにやって来た。作者が珍しい名前でなかなか読めなかったせいで少し手間取った後、ようやく目的の本を見つけた。ほっとして本に手を伸ばしたとき、例の状況に陥ったというわけだ。
「あ、ごめんなさい!」
 そう言って、謝った若い小柄な女性は見慣れない顔だった。ちっちゃくてかわいらしい、結構好みのタイプではあるが、一年も経っているのに職員を全員把握できていないのはおかしいな、と不思議に思うと訝しげな表情が顔に出ていたのか、女性は慌ててつけ加えた。
「あ、あの、私、昨日からここで働くことになりました、秋奈葵です」
「あ、なるほど。昨日、俺今年の花粉症発症して大変でさ、病院言ってたんだ。……あ、俺は櫻木翔」
「あ! あの人とおんなじ名前なんですね! えっと……なんでしたっけ、ジャニーズの……」
「嵐? まあ、一文字違うけど」
「へ?」
「あっちは櫻井、俺は櫻木」
「あ、あれ……? すいません、そういうの疎くて」
「へえ、珍しいね。女の子はみんなそういうの好きなんだと思ってた」
「どっちかっていうとドラマとかよく見るんです。だから俳優さんなら結構知ってますけど」
「嵐もよくドラマ出てるよ?」
「あちゃー」
「あはは、なんだそれ」
「それより……大丈夫ですか?」
「へ? なにが?」
「花粉症」
「あ、ああ、大丈夫大丈夫。いつものことだから。病院で薬もらってくればもう平気」
「はぁー。大変なんですね。私、花粉症まだなったことないから」
「そうなんだ? あ、秋奈さんってさ、大卒?」
「はい。今年青河大学を卒業しました」
「へー、結構いいとこ出てんだ。……じゃなくて、俺も去年大学出てここ来たばっかりだからさ、敬語とか別にいいよ?」
「え。でも、一年先輩だし……」
「いいよいいよ、たった一年早く生まれただけだしさ。そういうの面倒くさいじゃん?」
「はあ……」
「ま、無理にとは言わないけど」
 そこまで話して、なにか大事なことを忘れている気がしたが、思い出したのは彼女のほうだった。
「あ! 本!」
「あ、忘れてた。……はい」
 俺は本棚から男子学生に頼まれた例の本、『トショ∞コイ』とかいうケータイ小説を取って、彼女に渡した。
「えっ? でも……」
「いいからいいから。新人特別待遇ってことで。俺のほうには残念ですがタッチの差で借りられてしまいましたーって言っとくからさ」
「あ、ありがとうございます!」
 たいしたことをしたつもりはないのだが(むしろあの学生にお礼を言ったほうがいいんじゃないか?)、彼女はぶんっと音がするくらいの勢いで頭を下げた。そのまま、彼女は階段を駆け降りていく。体の小ささに比例した足の長さなので、転ぶんじゃないかとひやひやしてしまった。俺の横をすり抜けたときに秋奈さんの小さな頬がほんのり紅くなっていたように見えたのは気のせいだろうか。

 俺が一階のカウンターに降りていった頃には、秋奈さんは貸し出し手続きをほとんど終えていた。のんびり歩いていくのも気が引けて、いかにも急いできましたよという風にちょっと小走りで男子学生の待つカウンターに戻る。
「四月二十三日までの貸し出しです。ありがとうございました」
 彼女が貸し出しの定形文を言うのと同じタイミングで、さっき書庫で練習(?)したセリフを丁寧さ三割増しくらいで例の学生に言う。すると、利用者同士同じ本を借りようとしたことに気づいたのか、ふと二人の視線があった。
「すみません」秋奈さんの担当した利用者は、同じく大学生くらいの髪の長い女性だった。なかなかの美人だ。しかも、この年齢で妙に律儀な性格に好感度アップってとこか。
「あ、いえ……」
 おい学生! 美人に対してそれはなんだ。せっかくの恋の始まるチャンスかもしれないというのに。いや、こんなことで恋愛に発展したりしないか。
 いろいろと、心の中で品定めしたり野次を飛ばしたりしながらも、顔には出さず二人の利用者をにこやかな笑顔で送り出す。ふと、秋奈さんのほうを見ると、向こうもこちらに顔を向け、今の一連の出来事を共有したからか、歯を見せてにっと笑った。こちらもにっと返しながらも、彼女のあどけない笑顔にどきっとさせられた。
 その後は、お年寄りのよく使っているようなカートを押して自動ドアと悪戦苦闘するおばあちゃんを手助けしたり、図書館を遊び場代わりにしているのか数人で走り回っていた小学生を捕まえておとなしくさせたりしながらも、いつものように淡々と業務をこなした。
 夜、布団の中で妙に秋奈さんのことが思い出されたのが気になった。

「あの本、読んだことあります?」次の日、昼過ぎに少し利用者が減って暇になった時、彼女が寄ってきて俺に訊いた。
「あの本?」
「ほら、昨日の」
「ああ、『トショ∞コイ』ってやつ?」
「はい」
「いや……ケータイ小説ってなんとなく苦手で」
 元々、普通の小説はどんなジャンルでも大体好きなのだが、最近流行っているケータイ小説なるものはどうにもどれも同じような話に見えて魅力を感じない。まず、英語でもないのに横書きなのが苦手だ。学生時代の教科書を彷彿とさせられる。
「あれ、私買って読んだんですけど、なんかあんまりケータイ小説っぽくなくて、面白かったですよ? 当時、作者が高校生だったからケータイ小説扱いになっただけみたいで」
「高校生! っていうか、買ったんだ?」
「あ、はい。図書館が舞台の話だって聞いてつい」
 図書館が舞台になっている小説を読みたい! と思いながら、それを図書館で借りずに買って読む彼女がなんとなく可笑しくて、つい笑ってしまうと、
「えー! どうして笑うんですかー?」
 彼女のふくれっつらの可愛さに追い討ちをかけられた。なぜか笑いのツボにはいって、なかなか回復できないでいたところに利用者がやってきてしまったので、涙目で応対するはめになった。
その時やって来たのは常連のおじいさんで、目に涙を浮かべる翔を、花粉症かい?と気遣ってくれてしまった。
 花粉症は花粉症だが症状は薬でもう直ったんだ!とも言えず、
「はあ、まあ……」
 と、曖昧に返すと、隣で今度は葵が笑いをこらえているのが気配でわかった。

 その後、『トショ∞コイ』とかいう本に興味を持った翔は、葵に頼んで貸してもらうことにした。なにしろ、あの女子大生の後にももう一人順番待ちがいるのだから、場合によっては次に『トショ∞コイ』が返ってくるのは四週間後になる。どうせなら葵から借りてしまおうと考えたのだった。
 次の日、よっぽど気に入った本なのか、葵は早速『トショ∞コイ』を嬉しそうに持ってきた。
 翔は可愛らしい装丁のその本がついつい気になって、仕事の合間や昼休みに読んでいたら、わりと軽めの本で閉館時間を過ぎ帰る頃には読み終わっていた。
 たかがケータイ小説だし、と高をくくって読み始めた翔だったが、なるほど「ケータイ小説扱いになってしまっただけ」というだけのことはある。なかなか面白く、話に引き込まれていた。図書館が舞台の恋の物語が短編でいくつかあって、それぞれの話が少しずつ関係しているという面白い構成のその本は――やはり横書きの文章には戸惑ったが――なにより登場人物のキャラクターが個性的で、全員に感情移入できる。男女の可愛らしいやりとりに翔は心が癒された気がした。
 帰り支度をする葵に本を返すと、
「もう読み終わったんですか!?」と、目をまんまるに見開いて驚かれた。
 その表情がまたなんとも言えず可愛くて、翔は少し言葉につまった。
「わたしなんか、いつも図書館の返却期限が短いなぁと思ってたのに」
「延長しなかったの?」
「……えんちょう?」
「あ、いや、予約が入ってなければ、たいていの図書館は一度返してもう一度借りるって手続きして期限延長してくれるでしょ」
「はうっ……。そんな裏技がっ……!」
「いや、普通だって。むしろ図書館司書になってるのに知らないほうが驚きだよ」
 翔はまた彼女に笑わせられる。こういうのを天然、と言うのだろうか、などと翔が考えていると、
「あ、それよりどうでした?」葵が本の感想を訊いてきた。
「うん、なかなか面白かった。登場人物がみんな可愛いよね」
「ですよねですよね!」
「二話目の女の子とかね、秋奈さんみたいで」
 何気なく言ってしまってから、すごいことを口走ったと気づいたが、すでに葵の顔は真っ赤になっている。
「へ……!? それ、私が可愛いって、言ってるんですか……?」
 その可愛らしい反応が楽しくて、翔は開き直ってみた。
「うん、秋奈さんは可愛い人だと思うよ」
「かっ、かかかか、からかわないでくださいよ!」
 あんまり言い募っても葵がパニックになりそうだったので、そこまでにしておくことにした。
「もう……冗談はやめてください」
 別に冗談で言ってるつもりではないのだが、翔は肩をすくめるだけの反応にしておいた。
「この本の話ですよ!」
「秋奈さんの感想は?」
「んー……あ! このタイトルのマークってなんなんでしょうね?」
「言うに事欠いてそれかよ!」
「あ、いや、そういうわけじゃないんですけど、ちょっと気になって」
「うーん、無限大だから……こういう日常の話は無限にあるんだよ、みたいな」
「無限……? え!? このマークって、無限大って意味なんですか? なんで8が横になってるのかなーとか、ちょうちょかなーとか思ってましたよ」
「な、なんだそれ! やっぱり可愛いよ秋奈さん」
「ひえっ! もう、心臓に悪いからやめてくださいよ!」
「あははは!」

 それから、二人はお互いに本を貸し合うようになり、だんだんと打ち解けていった。いつのまにか、葵の敬語はなくなり、呼び名も気づくと葵ちゃん、翔くんに変わっていた。
「なあ、櫻木君櫻木君」
 ある日、昼休みに休憩室で弁当を食べながら翔に声をかけてきたのは、職場の安藤だ。安藤は、五十前のおじさんなのだが、家族揃って読書好きらしくおしとやかな奥さんと高校生の娘さんが時々図書館にやってくる。その度に安藤は奥の事務スペースに隠れてしまう。そうすると、図書館がすいている時には娘さんがカウンターから小声でお父さーんと呼ぶので、手の空いている職員たちが恥ずかしがる安藤を引っ張り出すという恒例行事が始まる。
 そんな可愛らしいおじさんの安藤が、
「櫻木君さ、秋奈さんと付き合ってるの?」
「は、はい!? いや、別に……」
「そうなの? みんな噂してるんだよ、最近仲良いし。気になるから訊いてきてって頼まれちゃってさ」
 翔もそんな噂をされていることは薄々感づいてはいた。噂好きだが憎めない職場の仲間たちが頼まれたら嫌と言えない安藤に、翔に詳しいことを訊いてきてくれるよう頼むのも頷ける。
「……で、どうなの?」
「え? なにがですか?」
「秋奈さんのこと好きなの?」
 そう訊く安藤の瞳が、話題に合ってか無邪気な子供のように輝いているので、翔は苦笑しつつ、
「んー、まあ、ちょっとそうかなぁと」
「なんだよ、煮え切らないな」
「いや……なにしろ誰かと付き合ったりしたことないもんで。よくわかんないんですよ」
「え! 付き合ったことないの? その歳で?」
「はあ……。残念ながら縁がなく」
「ふーん、男の僕が言うのも変だけど、櫻木君なかなかいい男だと思うけどねぇ」
「そういう安藤さんはどうだったんですか? 俺ぐらいのとき」
「僕? 僕は全然」
「そうなんですか? 安藤さんも可愛らしくていい感じなのに」
「可愛い? え。櫻木君、まさか君ゲイなの?」
「違いますよ、女の人が可愛いなって母性本能をくすぐられそうだなって」
「へえ……お? 秋奈さん。どうしたの? 一緒に食べる?」
 振り向くと、可愛らしい小さな弁当箱を持って葵が休憩室の入り口に立っていた。
「あ、はい。お邪魔していいですか?」
 安藤に椅子を出してもらって葵も翔の隣に座る。安藤はにやにやしながら、
「僕は佐々木さんたちのところに行こうかなーっと」
 と、弁当を持って休憩室から出て行ってしまった。露骨に気を使ったのが丸見えだ。安藤の言った佐々木さんたちとは、ボランティアのおじいさんたちのことで、彼らはまだ業務時間のはずだ。
 ふと見ると、なんとなく葵の表情が硬いような気がした。持ってきた弁当も取り出しさえしていない。
「どうしたの? 具合悪い?」
 翔の言葉に葵は驚いたように顔を上げ、思い詰めた表情で翔を見た。
「あの……。翔くんって、あんな風に誰にでも可愛いって言うの!?」
 一瞬、葵が何のことを言っているのかわからず、翔は戸惑った。
「え……? いや、そういうわけじゃないけど、ほら、安藤さんってなんとなく可愛い感じしない?」
「そう言われればそう……って、そうじゃなくて! この間言ってくれた『可愛い』っていうのは、安藤さんの『可愛い』と同じなの……かなって」
「…………。そりゃ、あの場では照れくさかったし、葵ちゃんに変に思われたくもなかったから、そういう意味合いってことにしちゃったけど。本音言うと、葵ちゃんは女の子として『可愛い』と思ってる……よ?」
 まともに異性に気持ちを打ち明けたりしたことのない翔は、下手なことを言って葵に嫌われたら、と不安でいっぱいだったが、その不安は次の葵の表情を見て希望に変わった。
「ほ、ほんとに……!?」
「う、うん。あ、あのさ……」「あ、あ、あのね……」
「俺、葵ちゃんが好きだ」「私、翔くんのことが好き」
 二人の言葉は全く同時だったが、翔と葵にはお互いの気持ちがしっかりと伝わってきた。二人とも、言ってすぐに顔が真っ赤になり、うつむいてしまった。
「あ、それで、もしよかったら、俺とお付き合いしてくれませんか?」
「うん……。是非」
「お、おお」
「なに、その微妙な反応」
「いや、恥ずかしいんだけど、こんなこと初めてだから……」
「え。翔くんも?」
「……も?」
「……うん。彼氏いない歴イコール年齢です」
「そうなんだ! 意外だな、こんなに可愛いのに」
「ひっ! もう、やめてよ、そんなことないって」
「なんだよ。晴れて恋人になったからにはどんどん言うぞ」
「恋人……かぁ」
 そう言って葵が本当に幸せそうな顔をするので、翔はその表情につい見とれて息を飲んだ。
「可愛い、なぁ……」
「うわっ! あーもう!!」
「あはははは!」
 と、いきなり拍手の音がして、二人は驚いて転びそうになった。音のするほうを見ると、入り口の陰で安藤が弁当を傍らに置いて床に座って拍手をしている。
「ひやー、ほめれとう! もかった、よふぁった!」
 安藤がご飯粒を飛ばしながら喋り出す。
「ちょ、安藤さん! なに覗き見してんですか!! しかものんびり弁当食べながら、恋愛映画やってるわけじゃないんですよ!」
「んー、映画にしてはうまく行き過ぎだよね。売れない売れない」
「うるさいな!」
 すると、二人のやりとりをにこにこ眺めていた葵が、
「確かに、なんか可愛いね」
「だろ?」
「なんだよ、二人して。いちゃいちゃするなよ」


 二人の交際も順調に進んだある日、あの『トショ∞コイ』の時の学生二人が仲良く図書館にやって来た。
 同じ本をきっかけにしたカップルを見て、二人は顔を見合わせて、にっと微笑んだ。



The End...